2016年9月2日金曜日

全ては心が作り出すもの、恋愛にじんせいに悩む時の相談




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自分を青春そのものと感じているこの私なのだが。
私は実際には年とってはいない、私は何ものをも諦めてはいないのだから。 
フランソワーズ・サガン『毒物(麻酔薬中毒で入院している間の記録)』 

(幼年期や青春、家族の思い出について)陰気な、あるいは冷たい、あるいは想像力に欠けたような環境の思い出はありません、それがいちばん大事なことです。 
フランソワーズ・サガン

自我は不変で、比較的孤立していて同時に、人に伝えることができない、という認識なのです。
フランソワーズ・サガン 共感する 名声というものは、爆発するものではなく、徐々に滲みこむものなのである。 フランソワーズ・サガン『一年ののち』 

私は自由を獲得する手段がもてたからです。
自由であることは、時間も空間も意のままに出来ることですが、それにはお金がかかるのです。 
試練が人を養うという考えは、まったくの嘘。幸せな時のほうが学ぶことがずっと多いのです。

幸せな時はもっとオープンな気持ちになり、そして何よりも、高潔な心を持つようになります。
高潔な心を持つこと、まさにこれが人間社会の、あるいは人類全体の目標とするところではないでしょうか。
フランソワーズ・サガン 

 記憶は空想と同じくらい嘘つきよ。まじめなたたずまいがあるから、空想よりずっと危険だわ。
 フランソワーズ・サガン 
 



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2016年8月30日火曜日

孤独だと思っても、一人だと思っても、必ず誰かがいる、恋愛相談




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考え方の問題よ。「1人」か、「独り」か


孤独だということは人と違う人間だということ。人と違っているということは孤独になるということ

一人では何も出来ぬ。 だが、まず誰かがはじめなければならぬ

孤独は雨のようなものだ。夕暮れに向かって大海からのぼり、はるか遠い平野から、孤独は天へのぼって、いつもそこにいる。そして、天から初めて街のうえに降る

女には本当に損なときがある。男によくしてやって愛していることを見せれば見せるほど、それだけ男は早く飽きてしまう


男女平等はともかく、男と女が同じことをできると思うこと自体が、間違っていると思うの。男女平等というのは、別々に前進しながら、並行していくことだと思うの



2016年8月27日土曜日

守るべき約束、果たすべき時期、運命は訪れる結婚相談




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好きって一言だけ。一言だけなのに勇気がない。勇気があれば未来が変わるかもしれないのに…、自分の気持ちを誤魔化して伝えれないまま終わっちゃうのかな?

好きなら告白すれば良い。相手に恋人が居るからって怯むのなら貴方の恋はその程度

女性の運命は愛される男によって左右される

恋は盲目。愛は猛毒



2016年8月25日木曜日

愛を待ち望む、出会いも恋愛も、待ち望む



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宗教というのは、どれも一元的な世界にもどることを説いている。
それは、生命の歴史の中で、私たちがまだ幸せだった時代にもどることである。

それは、進化の過程でいつ頃のことであろうか。魚類には自我があるのだろうか。

爬虫類(ワニなど)になると、すでに自己意識のあることは外から見ていてあきらかだろう。

いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識は、自我の確立とともに

人格神(一神教)の認識に進化する。そこでは、人格神にひれ伏して絶対的教えに帰依したり、

その人格神の超人的能力を仮想することで、ひたすら救済を乞い願う信仰スタイルをとる。

しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して、“神なき神の時代”に入る

ことができると、私は考える。つまり、私たちのこころに「野の花のように生きられる」リアリティーを

取り戻すために、必ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。


もはや何かに頼らなければ生きられない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に頼らずに、神の前に、神とともに生きるのである。

宗教学では、このように信仰が進化するとう考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的

に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない

信仰の形がありうると信じている。


柳澤桂子