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宗教というのは、どれも一元的な世界にもどることを説いている。それは、生命の歴史の中で、私たちがまだ幸せだった時代にもどることである。
それは、進化の過程でいつ頃のことであろうか。魚類には自我があるのだろうか。爬虫類(ワニなど)になると、すでに自己意識のあることは外から見ていてあきらかだろう。
いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識は、自我の確立とともに
人格神(一神教)の認識に進化する。そこでは、人格神にひれ伏して絶対的教えに帰依したり、
その人格神の超人的能力を仮想することで、ひたすら救済を乞い願う信仰スタイルをとる。
しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して、“神なき神の時代”に入る
ことができると、私は考える。つまり、私たちのこころに「野の花のように生きられる」リアリティーを
取り戻すために、必ずしも全知全能の神という偶像は必要ない。
もはや何かに頼らなければ生きられない弱い人間であることから脱却して、己の力で、まさに神に頼らずに、神の前に、神とともに生きるのである。
宗教学では、このように信仰が進化するとう考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的
に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない
信仰の形がありうると信じている。
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自然界は、常にあなたを許しています。指に火傷をしても、自然に傷が回復します。なぜ、あなたは自分自身を許して自由にならないのでしょうか?
疲れた人は、しばし路傍の草に腰を下ろして、道行く人を眺めるがよい。人は決してそう遠くへは行くまい。
自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる。
うさぎ型の人は、うさぎのようなペースで生きるのがいい。うさぎのような能力を発揮するだろう。かめ型の人は、かめのようなペースで生きるのがいい。かめのような能力を発揮する。世の中には、さまざまな能力がある。なぜかといえば、さまざまな能力が「必要だから」である。さまざまな能力が活動することによって社会は成り立っている。
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結局、愛の清純さは、その欲望が未来に向けられているか、いないかによって決まるのである。この意味で、死者にたいしていだく愛は、もはやわれわれが未来をにせの永遠不滅にでっち上げない限り、まったく純粋である。なぜなら、死者への愛は、もうあたらしいものはなに一つあたえることができなくなってしまった、完了した生命への愛だからである。われわれはいまはこの世に存在しないひとが存在してくれたらなあと思う。そうすると、そのひとは存在したことになるのだ。
「愛と死のパンセ」
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すべての生物はその存在理由を持っている。一匹のアリでさえその存在理由があって、アリはアリなりの仕方でそれを知っている。まあ、脳を使って知っているのではないかもしれないが。ただ人間だけがなぜ自分が存在しているのかがわからなくなる地点まで達したのである。人間は、もはやその脳を自分の役に立てておらず、自分の身体の、感覚の、夢の内密の知を忘れている。人間は、精神が人間の中に蓄えておいた知識を活用しておらず、そのことを意識さえしていない。人間は目をつぶったままで、どこにも行き着かない道を前進している。広い砕石道を、技師たちが機械で砕いてさらに滑らかにして、人間を飲み込もうと無の穴が待っている、そのはてに向かって進んでいる。 「自然の言葉」より